先日、コロナ禍以来の看護学生時代のクラス会に参加しました。
卒業して30年余です。
10人ほどのメンバーで、それぞれに仕事の話や、家族の話をしました。
みんな、子どもがどんな学校に進学したかを中心に伝え合っているので、
私は「高校3年生の息子が発達障害児で、特別支援学校に通っている」という話をしました。
小学生の時にコウに会ったことのある友人Aが
お酒も入っているせいで涙もろくなったのか、
「全然気がつかなかった。得意なことはないの?大学に行かないで就職するの?子どもは可能性があるのに、その芽を摘んでしまっていると思う」と涙を浮かべているではありませんか!
私が悲壮感を漂わせながら話したのでもないのに。
「えっそんなに私は不幸だと思われるのか?」と内心驚きました。
「体は健康だし、地下鉄に一人で乗れるし、それだけで十分だと思ってるよ。
息子にはあまり教育費はいらないのだとわかって、仕事を減らしているよ」
と逆に慰めるような、言い訳するような感じになってしまいました。
発達障害児の母親が同情されること、
特別な支援を受けて育つのは、活躍の範囲を狭くすることだという価値観に遭うこと、
私が現在属するコミュニティの中では、なかなかない経験です。
急に聞いたらびっくりして、何と言ったらいいかわからない、といったところでしょうか。
実は子どもが障害児だと打ち明けて泣かれた経験は、これで二度目でした。
もう一人は、私より20歳年上の友人女性です。
私が多大な苦労をしそうで、泣いていたのかもしれません。
そういえば、これも看護学生時代の友人同士の話ですが、
友人Bが20代で出産した子がダウン症児でした。
これを知った友人C(当時独身)が「『出産おめでとう』とBちゃんに連絡をしたいけれど、障害がある子だから『おめでとう』と言えないね」と私に言いました。
私(同じく当時独身)は「ダウン症の子でも、生まれたことは『おめでとう』でいいと思うよ」と答えました。
友人Cは「そうか…そうだね!」とすぐに納得してくれました。
障害を持つ人に普段から関わる看護職でも、
「障害児・障害者観」は、多様だなぁと感じた出来事でした。
「障害のある子でも、とっても可愛がって育てているよ」「幸せに暮らしているよ」というのは、
他者から見ると想定外なのでしょうか。